公開: 2024年6月3日
更新: 2024年6月3日
民主主義社会で、民主主義的な手続きに従った正当なやり方で、行った選択決定に誤りがあった場合、その誤りを正し、選択実施以前の状態に戻すことは、とても難しく、ほとんど不可能であるとしか言えません。
その典型的な例が、「戦争」に関わる問題です。特に「開戦」の決定は、選択の誤りが明確になったとしても、「開戦」の決定を廃棄して、「開戦前」の状態に戻すことはできません。一旦、戦争が始まると、戦争の当事者である国々が停戦に賛同するまで、戦争状態は継続するからです。有利な立場にある当事者は、有利な条件でなければ、停戦に応じることはできません。不利な立場にある当事者も、不利な条件での停戦を受け入れることは、容易ではありません。
第2次世界大戦への参戦を決定した、東条英機元首相の日米戦争の開戦決定は、当時の国民の間に蔓延していた「好戦的な雰囲気」に押されものであったとは言え、天皇の慎重な態度にも拘わらず、極めて事務的な判断を優先したものであり、リーダーとしての認識が不足していたとしか言えないでしょう。
それまで続いていた中国との戦争が収束しないままに、対連合国軍との戦争に着手した日本軍は、開戦から1年ほどで、不利な状況に追い込まれ始めました。それでも、日本軍の中では、一度、日本軍が明確な勝利を得てから、有利な停戦交渉に入ることを期待して、戦争を続ける方針を維持しました。
1944年からの1年半は、いたずらに犠牲を出しながら、戦争を継続していました。真剣に、停戦の議論を始めたのは、ドイツが降伏し、沖縄での戦闘が終わって、敗戦が明確になってからでした。1944年頃から、国民の間では、「えん戦気分」が出始めていましたが、日本のリーダーたちは、戦争を終わらせることを真剣に考えることは、無かったようです。
1945年7月にポツダム宣言が出され、8月6日に広島、9日に長崎に原爆が投下され、9日にソ連が日本に宣戦を布告して、中国東北部の日本軍部隊を攻め始めて、日本のリーダーたちは、ポツダム宣言の受入れを議論し始めたのです。民主主義国家ではなかった日本の選択決定は、遅すぎました。ただ、これは、政治体制の問題と言うよりは、日本社会の意思決定の問題と言えるようです。